昭和47年7月17日 朝の御理解
                                     中村良一
御理解 第52節
「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。」



どのような事に直面しても、驚かんですむ。泰然自若、微動だもしないと言われてますですね。そういう信心を、本当に身に着けていきたいと思いますですね。えー、んー、実を言うたら、んー、どのようなこと、どのような場合であっても、神ながらな神様の御働きの中にあることですし、まあ、驚かなければならないような事の場合などは、あー、むしろ、それによって、一つ、本気で、えー、信心の度胸を試してくださり、信心の度胸を、おー、作っていく時なんですね。やはり、信心の度胸がなからなければいけません。これは、えー、勿論、信心する者はとありますから、信心によるところの度胸の事ですよ。やはりあの、度胸のいいのとか、あー、度胸のないのと、やっぱ、おりますけれどね。あの、普通でいう、その、度胸ではない。信心による、信心に、えー、よって、段々、出来てくるところの度胸でなからなければならん。で、なかったら値打ちはない。ね。えー、そのために、私共は、やはり、大きな信心をしなきゃいけません。ね。このくらいな事で、びくびくしたり、このくらいな事で驚きよったんでは、大きなおかげは受けられん、と、先ず思う。そこで、願いを日頃です、大きな信心、大きな願いを立てて、ね。おりますと、おー、少々な事が起きてまいりましても、ね。こういう大きな願いをたて、こういう大きなお願いをさせて頂いておるのであるから、もう、このくらいな事はもう、当たり前と。または、このくらいな事に驚きよったんではという、その勇気が出てくるんです。私は大体、もう、偉い臆病なんですけれどもね。段々、信心させて頂くようになったら、ほんとに、これはくそ度胸じゃなかじゃろかと思うごたる度胸が段々出来てくるのに、有難いと思いますね。えー、もう、十年にもなりますでしょうか。椛目の時代でしたけれど、ね。あるご信者さんの家の、おー、問題が起きたんです。それでその、問題が、あー、それこそ、その、何と言うですかね、脅迫をされるわけです。久留米の、まあ、よい遊び人でしたもん、相手が。ですから、それに関わりあったもんですから、もう、ほんとに、家も屋敷も、これで取られてしまいどんせんじゃろかというような、その問題だったわけです。問題の性質が、そんな問題だったんです。けれども、まあ、一生懸命ご信心が出来られますからですから、えー、お願いがある、お伺いがあると、そのまま、ほっとけほっとけという事でした、いつも。それで、向こうとしては、いよいよ穏やかでないわけですね。それで、あの、本人が、あー、その、乗り込んで、向こうへ、まあその、来たわけです。しかも、向こうから、親子連れでやってきた。丁度、その時に、お父さんが、椛目にお参りをしてきとったもんですから、なら、こうして、金光様にお参りをしとるからと言うたから、椛目のほうにやってきたんです。それで、話を聞いてくれというから、まあ、関係の方たち、五、六人、二階の、あの、椛目の客間で会いました。はー、なかなかそりゃ、やっぱ、一筋縄ではいくまいごたるとですよね。大概、話させて頂きよって、夏でしたから、こう、簡単シャツ、開襟、あの、長いシャツ着とりましたもん。たら、こう、ボタン外してから、こうこやって腕をまくりなさるですもんね。ところが中から、もう、それこそ、はっはは、その、刺青一杯身体からしてあるわけですね。だから、まあ、ひょっとすると私に見せるつもりじゃなかったでしょうか、こうやって。わざわざ、こうこやって、いつもこうこしなさるです。それで私、ちらっと目にかかったきん、はー、あーたんとは見事ですね。もう、久しぶりでこげんとば見せていただいたち言うちから、私が申しましたら、もう、照れくさそうに、こう隠されました。ともう、ほんとに、向こうではそれで脅そうと思いよりなさるけれども、こっちは、ほんなこて、はー、珍しか、立派な彫り物ですねと言うて、見れれるこころなんですよ。ね。バックには神様を頂いておる。もう、それこそね、それっきりでした、お話は。あー、もう、とんとん拍子に解決のおかげを頂きましてね。それから一週間ばっかりしましたら、その方が、向こうからね、お礼に来ました。ね。お神様のおかげち、というわけでね。そんな事がございましたが、ほんとに、ああいう時に、例えば、その、脅かされるのに、こちらが驚いとったんだら、向こうの罠に乗るようなもんですからね。けれども、ほんなら、度胸がなからな出来るこっじゃない。と言うて私は、普通でいう度胸は、今も申しますように、ありませんけれどもです。ね。お繰り合わせを頂いておる、いつの場合でも。その前後に、ちゃんと驚かんですむだけの、心の準備が出来ておる。おかげで驚かんですむ。私のいう事を、みんな、よく聞いて分かってくださる。といったような事がございました。ですから、やはり、お繰り合わせをいただかにゃいかんですね。まあだ、私共ぐらいな信心で、ね。それこそ、ここに、ね。これから後、どのような大きな事が起こってもと、こう仰る。その大きな事が一遍に起こりよったんでは、やはり、びっくり仰天いたしますから、もう、少しづつ、稽古をさせていただき、そして、また、その前後にです。今申しますように、神様を、いよいよ、信じて疑わないというか、いよいよ、有難いなあといったようなところに起きてくるのですから、これを、いわゆる、どっこいという、受ける力というか、ね。それを、有難く受けれる、いわば、平気で受けれれる心が頂けるんです。とっさにですね、とっさにもう、起こりますと、やっぱり、びっくりしますからね。
私は、昨日、おー、文雄先生と、高橋さんと三人でお風呂頂いてから、あそこの中で話した事でしたけれど、どんな、怖い事でも、やっぱり、お繰り合わせをいただかにゃいかんと話をしたんです、風呂の中で。それが、私、前の晩に、お風呂は入ってから、あがってもう、身体を拭きよりました。そしたら、丁度、私がいつも入るとこの、天井の上に蛙 が止まっとりますもん。青蛙、小さい蛙。風呂の中にでも、便所の中にでん入るととです、ここは多いからですね。はー、ほんにもう、もう、びっくりしましてね、私は。あっはは、あれが、ほんなごて、入ったときなら、あの下でじっとこうやって、ああ極楽極楽とは言うておられんとですよね。上に、そげな、えすかつがおるとじゃけん。はっははは、私は、もう、他になーにも、えすかもんはなかばってん、もう、これだけは、実が振るうごと、昔から、えすかっです。こらもう、本当にそうです。あら、虫が好かんとと言うとでしょうね、やっぱり。一遍な、私が、椛目におりますときに、あの、御広前の前が、ね。あの、あー、小さい庭があるでしょう。あそこでこう、涼んでおりましたもん。そしたら、あーた、前に、このくらいばっかりの、あら、わくどのこでっしょうね。もうちょっと、そん時ばっかりはもう、どげなこ、もう本当に、あのですね。この身体の重かつが、こんなふうに、くりくりひっくり返ってから、お広前の真ん中まで出てきとっとじゃもん。はっはは、かけしゅうなってから、そしてもう、そらもう、奇妙な声を出したらしいですから、皆が、どげんして、どうしなさったですかと言うてから、やって来ました。したら、あーたその、わくどがおったげな。はっははは、ね、それがね。とっさだからなんです。私は、この頃、あん、蛙でもですね、そのわくどでも、じーっとこう、こちらが心を落ち着けて見よるとですね。あら、なかなか、こえらーしゅ顔しとるでしょ。こん、目元のとこだんですね。はっははは、けれども、とっさに出てこられたらもう、本当にもう、もう、そら、奇妙な声が出るです。はっは、その事をね。夕べも、(紫?)に話すんです。それがあーた、丁度そこの真上からですね。その机が一杯、梅雨で、あの、きょろきょろしよるけんで、そして、下に落ちとります。それでん、ほんとに文雄さん、これが夕べどんだったら、私は、ほんなこて、もう、そーにゃびっくりしとるとじゃったろち。そーにゃ、夜中の事でしたから。奇妙な声を出して、皆がびっくりしたこっじゃろち言うて、まあ、話した事ですけれども、いわゆる、お繰り合わせを頂いた、ね。上がらせて頂いてから、風呂の中に落ちこんどる、蛙が。あれが、間髪を入れず、やっぱね。えへっ、ほら、あーた方、笑いよりなさるけれども、私にとっては、そんなに怖い事なんです、やっぱり。だからその、あー、やはり、怖いものは、いっちょ、二つぐらい、誰でもありますけれどもね。けれどもその、前後にお繰り合わせを願わにゃならん、いつも。それは、どういう事かと言うとです。本当に、このように神様の間違いのない働きの中にいつもあると言う実感をね。いつも頂いとかんならん。どんなに刺青しとっとが、こうこやっとったっちゃ、はーそれ立派なもんですねち、言えれる心なんです。ああやって、おちょくったわけでもなからなければ、もう、本当にそう思うたんです。ね。そして、怖いというような心はもう、さらさらなかったです。それは、何時も神様をバックに頂いておる、何時も神様のご守護の中にあるというものが、いつも、そういう、特にそういう強い思いをしておる時に、例えば、とっさな事が起こって参りましても、大きな事が起きてまいりましても、どっこい、というその、それこそ生神金光大神様というのが、先に出てくるようなお繰り合わせを頂かねばならん。ね。これは、例えば、あー、腹の立つような問題でもそうですよ。ね。迂闊にしておるときに、ぽんとやられた時には、あのくらいな事が、どうしてこげん腹の立ったじゃろかと言うように腹が立つでしょう。お繰り合わせを願わなければいけません。自分の心が、それこそ、有難いでいっぱいの時にです。ね。それこそ、顔にかかわるような事を言われても、それが、むしろ有難い。その有難いと思う心がおかげをいただく元になるのでうから。ね。どのような問題が起きてまいりましても、よろよろして、後ろに、一歩、二歩下がったら、もう、それだけの事なんです。ね。それを、金光様、有り難うございますとこう、こちらから、それを受けていくといったような心。ね。信心するものは、これから先、ね。どんな大きなことが起こってきても驚かんですむような信心。これは、どーでも身に着けなければ、本当のおかげになって来ないのです。
信心をしておって、変わった事がおきてきたら、有難いと心得て信心せよと仰る。信心しよるきん、必ず、平穏無事なことばっかりはありません。ね。とりわけです、お願いをする。ね。神様にお取次ぎを頂いて、お願いをして頂いて、例えば、ほんなら、病人なら、病人の場合が一番分かるでしょうけれども、お願いをしたら、かえって熱が出てきた。かえって容態が悪うなったと、言うた時にはです。もう、変わった事が起きてきておるのですから、有難いと心得て、一段と信心を進めなければいけんです。これはお願いしとるばってん、こら、どうなるじゃろかと。そしたら、もう、それまでの事。もうね、おかげを頂くひとつの機微ですから、ここは。ですから、どうでもです、ね。信心しておって、変わった事がおきてきたら、そらおかげだと言えれる信心です。そらおかげよと言えれる信心です。同時に、今日頂きますようにです。ね。どういう大きなことが起こってきても、驚かんですむという信心。と言うて、とっさにやられますとです。私共がびっくり致しますから、その辺のお繰り合わせを、日頃、願わせていただいて、ね。ほんとに、神様の一分一厘の間違いのない働きの有難い事をです。実感させて頂いておるときに起きてくるのですから。その起きてくる、その事も、神様の、やっぱり、一分一厘間違いのない働きのなかから起きてきておるんだと、実感できますから、驚かんですむわけです。ね。
先ほど、今、申しましたその、刺青の人を相手にしてお話をした時の事もです。そういうような事があって以来、例えば、あー、その方の家の、おー、言うならば、あー、真っ黒い雲がこうかかってきておったようなのがね。それこそ、雲が晴れたようなおかげを頂き、それから後、そういう雲のかかるような問題は、一つも起こらなくなりました、今日まで。ね。そらもう、後から考えてみてですたい。あれが、普通の信心がなかってからの問題だったら、もう、それこそもう、青なってしまう事であろうと思うような問題でした。けども、そういうところを通り抜けさせていただいた先にです。ね。言うならば、神様を信ずる力も、いよいよ出来、おかげもそこから頂けてきておる訳です。ね。そこで、私は、今日、この大きな、どんな事が起きてきても驚かんですむというほどしの信心が、もう、そりゃ、いよいよの時には、驚くくさい、そら人間じゃけん、びっくりするくさいと言わずにです。やはり、稽古しなければいけんです。しかも、お繰り合わせを願わにゃいけんと。ね。凡夫の事でございますから、いつ、どういう事が起こってくるやら分かりませんけれども、ね。例えば、そういうような事柄でも、万事、お都合お繰り合わせの中にです、ね。例えば、私が、風呂から上がった途端に、上から落ちたというようなお繰り合わせをいただかにゃいかん。ね。だから、それは、ほんに神様のご都合ちゃ有難い事じゃあると、お礼が言えれるわけです。ね。そういう心。信心しておって、ね。変わった事が起きてきたら有難いと心得られる信心。良かですか、皆さん、信心さしていただきよって、願いが成就した。はー、もう、ほんとに有難い。思う通りになる。神様のおかげちゃ、有難いこっじゃある。時なら、誰だって合掌するとですよ。ね。ですから、その普通では、合掌ができないようなことの場合にです。合掌のできれる信心こそが、本当の合掌のできれる信心なんです。自分の都合の良か時だけ拝むとなら、誰でん拝むです。何かもろうた時だけ、誰だって有難いと言う。ね。それこそ、目の前が真っ黒なる様な事が、例えば、起きてきてもです。それを、御神意、神様の御働きとして合掌して受けれる心。信心しておって、変わってきた事が起こってきたら、有難いと心得れる信心。そういう信心が、二つ出合った時、はじめて、これが合掌の姿だという事です。ね。拝み合うわけです。ね。ですから、ここから良いものが生まれてくる。そこから力が頂けてくる。もう、私は、もう、もう、いつもこの事だけは思う事でございますけれどもね。本当に、私が助かりたいと思います。もう、これはほんとに、もう、寝ても覚めても、その事は思います。ね。私自身が、本当うに力を受けたいと思います。だから、力を受ける事の手段というか、手立てがあるならばです、私は、どういう事でも辞せない覚悟でおります。この事を通り抜けさせてもろうたら、力が受けられると言うなら、私は受けます。ね。この事によって、より有難くならせて頂くならばです。ね。「打ち切るは、難しされど、妙賀かな」とてもこれは、打ち切るような事は出来ないと思うような事でも、これを打ち切れば、これを取り外せば、ここを改まれば、より有難くなれるぞと、神様が仰るなら、もうその事に、本気で取り組みます。妙賀のほうが有難い。喜びの妙です。ね。もう、これを寝ても覚めても思うこと。より、助かりたいと思います。皆さんの、難儀な問題を聞かせて頂くたんべんにです、ね。聞かせて頂くたんべんに、私が、より力を受けなければならないな。より、助からなければならないな。私が助からなければ、皆さんを助ける事は出来ませんもの。皆さんが重うてたまらんというものをです。私が少し持ってあげるには、私、もう、つう一杯に持っとったんではもう、人のものを持ってあげる事が出来ませんもの。と言うて、持っとるだけは、持他にゃいけんのですから、より、力を頂くより他にないのですもん。皆さん、どうぞ、おかげを頂きたいと言うてもです。ね。おかげを頂く前にです。本気で、ね。私自身が助かる、という事は、願いが成就するという事じゃないです。私自身の心が助かる。言葉を変えて言うとです、より、いよいよ、有り難うならせていただきたいという願いを、もう、寝ても覚めても持ち続けねばいけません。ね。どんな、例えば、難儀な問題があっても、その事が、より有難くならせて頂くことのための材料になるのだと、分からせて頂いたら、ね。有難く、いよいよ有難くなってくる。有難く受ける事が出来る。もう、おかげを頂きたい、おかげを頂きたい。おかげを頂きたいけん一生懸命参りよるという信心じゃないです。もう、ただ、有り難うなりたい。真実、私が、どのような場合であってもです。驚かんですむとか、、有難いとお礼の言えれるような心の状態を、私が助かるという事なんですから。ね。もう、ほんとに、いよいよ、私が助かりたいという願いを、寝ても覚めても、こりゃ、持ち続けさせていただかなきゃならん。ね。私が助かりたい。この問題が、どうぞおかげ頂きますようにという事ではなくてです。ね、私自身がもっともっと力を受けたい。もっともっと有難くなりたい。そういう願いを立てさせていただくと同時に、その願いの、もうひとつ奥のほうにある、大きな願いと。これは、私的な私の願いといったようなものではなくてです、ね。いうならば、神願成就、神様の願いが成就する。神様の、いうなら、手にもなりたい、足にもなりたいというほどしの、大きな願い。ね。そういう大きな願いを持たせていただく事によってです。ね。こういう、大きな素晴らしい願いを立てておるのであるから、このくらいな修行は当たり前だろう。このくらいな事で驚きよったんじゃ、おかげは受けられんぞというような心も出来てまいりますと同時に、いよいよ、私が助かりたいという願いをです。ね。これはもう、寝ても覚めても金光様というけども、寝ても覚めても金光様が、はー、おかげ頂きたい、助けて下さいという金光様じゃつまらん。金光様というのはです。ね。いつも心の中、言葉に出して、また唱えます。金光様と。それは、有難いから金光様が思わず出る事もあります。けれども、より助かりたいから金光様が出る。というような金光様でなからなければならないと思うです。同時に、今申します、私共の、いわゆる、目の前に、ね。いうなら、障子一重がままならぬ、人並であるのですから、いつどのような事が起きてくるとも限らない。けれども、ね。どういう事が起きてまいりましたに致しましても、その前後に、万事万端、お都合お繰り合わせを頂いておって、私が有難く受けられるような状態の時に、例えば、怖い事でも起こってくるようなおかげを頂いたら良いわけです。だから、お繰り合わせを願わにゃいけません。ね。それこそ、まあ、とっさに起きてまいりますと、それこそ、奇妙な声を出してひっくり返らんような事になりますからね。ですから、お繰り合わせを願わせて貰うて、ね。例えば、ほんとにこれが、普通、信心が薄い時、信心が無か時ならば、もうどげん、青なって驚いたであろうかというような問題がです。もう本当に、それを驚くどころか、有難ーく受けられるような心こそ、しみじみとした有難さというのじゃないでしょうかね。どうぞ。